アナ・トストエス氏が語る
「建築は語る ―土地の記憶と再生のあいだで」

2016年、ル・コルビュジエによる国立西洋美術館の世界文化遺産登録を受け、モダニズム建築※1への関心が高まっている。19世紀後半の欧州から世界へ広まり、日本では1950年代に花開いたモダニズム建築は、美術館や体育館、市役所、図書館など、今でも私たちのごく身近にある建物が多い。しかし、築後半世紀を経て老朽化が進み、保存か取り壊しかをめぐる議論が各地で起きている。こうした現状をどう見るか、モダニズム建築の保存に取り組む国際組織DOCOMOMO Internationalのアナ・トストエス会長に、建築史家の松隈洋氏が聞いた。

[2017年3月]

アナ・トストエス/DOCOMOMO International会長、リスボン工科大学教授
ポルトガル・リスボン生まれ。建築家、建築史家、リスボン工科大学教授(建築史・建築理論)。2010年よりDOCOMOMO Internationalの第3代会長。近代の欧州、アフリカ、アジア、アメリカの相互関係に見る20世紀の建築文化および都市史の研究に携わり、多数の論文、出版物、展覧会を手掛けている。これらの功績により、06年にポルトガル共和国大統領から、エンリケ航海王子勲章司令官の名誉称号を授与された。

 
松隈 洋: まずはDOCOMOMO(ドコモモ)について、簡単にご説明いただけますか。

アナ・トストエス: 20世紀の建築においては、モダン・ムーブメントが大変重要な潮流となったわけですが、DOCOMOMOはその歴史的・文化的重要性を広め、情報を記録し、現存するモダニズムの建物や環境の保存を訴えることを目的とした国際的な学術組織です。1988年の発足以来、近代建築史の研究者をはじめ、建築家や建築エンジニア、マテリアルの専門家、都市計画や行政関係者などが参加し、今ではリスボンにある本部のほか、世界各地に69の支部があります。モダニズム建築に対する理解を広めるため、シンポジウムの開催やジャーナルの発行といった啓蒙活動のほか、後世に残すべき貴重な作品の選定、調査・アーカイブ化、技術的な支援も行っています。

松隈: アナさんはDOCOMOMOの会長として日本を含め、世界各地へ足を運ばれていますね。

トストエス: モダニズム建築の流れは世界に広く波及し、それぞれの場所で独自のスタイルを生みましたからね。日本には優れたモダニズム建築が数多くあるので、たびたび訪れています。中でもここアイハウスは、日本の戦後史の記憶を刻む場所として、また東西関係の再構築を図ってきた場所として重要な意味を持っており、そうした志は前川國男、坂倉準三、吉村順三という3人の巨匠による建築デザインにもよく表れています。国際的でありながら、決して無国籍な“インターナショナルスタイル”ではない。日本建築が伝統や文化的ルーツを維持しながら、近代化をどう表現してきたかを体現したマスターピースだと思います。

ほかにも京都の聴竹居(ちょうちくきょ)(藤井厚二、1928年)に見られるような木造モダニズムが1920年代に存在したことは驚きですし、丹下健三の代々木体育館もハイテクノロジーとアートの融合が見事で、これが64年に造られたのは画期的なことです。そして最近訪問した豊島(てしま)美術館(西沢立衛、2010年)は、周囲の景色や海の色も相まって本当に美しかった。かつて産業廃棄物の問題に揺れた島の再生に、建築やアートが一翼を担った好例ですね。


代々木体育館 ©Wikimedia Commons / Kakidai


聴竹居(写真提供:竹中工務店 撮影:古川泰造)

 
松隈: 地域によって課題は異なると思いますが、今世界ではどんなことが議論されていますか。

トストエス: 最近特に注目されているのは、「リユース」ですね。DOCOMOMOはモダニズム建築の保存や修復、そのための資料整備に注力してきましたが、30年間の技術進歩も相まって、リユースという手段もより現実的になってきました。建物というのは利用された方が良いわけで、時には新たな用途に合わせて機能を更新する必要があります。建物が持つ本来の特徴を保つことは非常に重要ですが、場合によってはそうした「アダプティブ・リユース(適応型再利用)」ができないかと、想像力を働かせることも必要。その意味ではモダニズム建築は“現在進行形”なんですね。

もちろん、保存を目的とした修復が必要なケースもあります。しかし、多くの建物は再利用しなければそのまま失われてしまうのです。日本にはアイハウスをはじめ、修復や、時に変容を効果的に行った例が数多くありますよね。最近では耐震性や省エネといった性能基準面の更新も求められていますし、日本はこの分野の先駆的存在だと思います。

松隈: そうですね。ただ、その日本でも歴史的なモダニズム建築が次々と取り壊されています。こうした動きをどう見ていますか。

トストエス: 先日訪れた沖縄には、耐震への懸念から取り壊し構想が出ている那覇市民会館(2017年5月現在、無期限休館中)があります。補強に莫大な経費がかかり、非常に難しいケースではありますが、沖縄の本土復帰の記念式典も行われた象徴的な建物ですし、古来の文化を複合的に体現した美しいデザインなので、壊してしまうのは残念でなりません。もちろん経済的な問題は十分承知しています。しかし地域社会のシンボルを保存することは、人々やコミュニティーにとって非常に意味のあることだと思います。

ブラジル・サンパウロでも70年代に、ある大規模工場が閉鎖された際、建築家のリナ・ボ・バルディと失業した労働者たち、地域住民が建物のリユースを目指す運動を起こしました。高級住宅に建て替えられる予定でしたが、運動によって再利用が決まり、建物の構造を残して劇場や図書館、プール、カフェなどがつくられました。当時としては、とても先駆的な出来事でしたね。

松隈: 市民が主役となって建築に関わった貴重な例ですね。日本でも今回の世界遺産登録を受けて、モダニズム建築が少しずつ認知されてきました。しかし多くの人々は「法隆寺や清水寺の価値は分かるけど、モダニズム建築はいまひとつ分からない」というのが実情です。

トストエス: それは他国も同じです。DOCOMOMO はル・コルビュジエの功績を長年訴求してきましたが、その価値が認知されるのには時間がかかりました。ル・コルビュジエは非常に優れた建築家で、ソ連やブラジル、アルゼンチン、北米、日本、インドなど世界各地に多大な影響をもたらしました。そして彼自身もまた、各地の伝統文化からインスピレーションを受け、それを吸収し、他の場所で応用したんですね。そうした価値が認められた今回の世界遺産登録は、言うならば私たちが苦労して勝ち取った成果です。

日本も今、国立西洋美術館の登録をきっかけに、モダニズム建築全体の認知に向かって初めの一歩を踏み出しました。ある建物がその土地に根差したシンボルとなり、人々がそれを誇りに感じることは大きな意味があります。そのためには市民の理解が極めて重要ですし、理解を得るには彼らの建築を見る目を養うことが必要です。今の時代はSNSがありますから、ひとたび価値が認識されれば保存運動が広がる可能性もあります。

それに、寺社などの伝統建築もモダニズム建築も、根本の部分では共通するところがあるのではないでしょうか。西洋から見ると、日本の建築はモダニズム建築以前からすでにモダンだったと言えます。個々の建物の構造要素だけでなく、借景という概念や左右の非対称性といった「空間」に対する日本独特のアプローチは、古来脈々と培われてきたものであり、西洋の伝統とは全く違います。つまり、現在の建築史は書き直しが必要なんです。

松隈: モダニズム建築の歴史はすべて西洋の視点で発信されているから、逆からの書き直しが必要だと。

トストエス: そうです。今日本をはじめとする東洋20世紀建築が見直され始めていますが、戦後というのは日本の建築界にとって実に豊かな時代でした。建築家は多くのプロジェクトに恵まれ、実際に優秀な建築家が次々と登場し、先駆的な試みやムーブメントが日本で始まりました。しかし、戦後の日本でどれほど質の高い建築が生まれたか、日本人の多くは気づいていないかもしれません。ですから、そうした理解を広め、戦後の建築史を書き換えるためには、日本が自ら発信していく必要があります。

確かに素晴らしい建築の多くは西洋で生まれましたが、その西洋が日本の建築に出会い、驚嘆したわけです。60年代のメタボリズム運動にしても、槇文彦が書いた『Investigations in Collective Form』(1962年)にしても、日本から発信されたものです。イギリスで68年に起きたアーキグラム運動※2などはメタボリズムの後追いだったにもかかわらず、当時の書物は代々木体育館に触れている程度で、槇にもメタボリズムにも言及がない。だから今こそ20世紀建築史の見直しが必要なんです。

松隈: 最後に、建築遺産の価値とは何でしょうか。

トストエス: 建築というのは、一つの社会や国を最も包括的に語り得るものではないでしょうか。建築とはその土地の記憶の刻印であり、建築なくして文化や社会を知り得ないからです。ギリシャのパルテノン神殿や南米のインカ遺跡は、その土地の文化を余すところなく伝えていますね。私たち人類は大いなる過去と未来のつながりの中で生きています。過去を知ることなく、未来を描くことはできません。だからこそ、建築遺産に価値があるのです。

日本には丹下の広島平和記念資料館と平和記念公園(55年)がありますね。実を言うと、戦禍のあまりのむごさに、最近まで足を運ぶことができずにいました。でも行ってみると、決して人々を威圧することなく、皆が平和の尊さに想いをはせることのできる素晴らしい空間だと分かりました。

松隈: 丹下は広島の高等学校を卒業後、東京大学に進学していて原爆を免れたんです。そして広島の復興計画の依頼が東京大学に来た時に、自ら手を挙げ、次の年に広島で原爆ドームを見た。その3年後のコンペで、彼はドームを残すプランを作ったんです。当時はまだドームの保存をめぐって意見が割れていて、広島市が最終的に残すと決めたのは、丹下がコンペ案を出してから実に17年後のことでした。ドームを残さなければ広島の記憶は次の世代に伝わらないと、丹下には分かっていたんですね。


丹下による広島平和記念公園の設計案。ドーム(上)とアーチの塔(現在は 原爆死没者慰霊碑)と陳列館(現在の平和記念資料館)を結ぶ軸が一直線 に公園を貫くよう配置されている。(広島市公文書館所蔵)

トストエス: かつては普通の建物だったドームが、原爆という悲惨な過去を語るシンボルとなり、ひいては平和記念公園という、より良い未来を願う場所へのインスピレーションになったわけですね。今の話を聞いて、広島で感じたことがより深く理解できたような気がします。それはまさに、なぜ建築遺産が重要なのかという問いへの答えになっているのではないでしょうか。

※1 19世紀の欧州で起こった合理主義的・社会改革的な思想や技術革新に基づき、産業革命以降の社会に合った建築を造ろうとする運動によって生まれた。石やレンガを使ったバロックやゴシック様式に代わり、コンクリートやガラスなど工業化された材料を用いた、機能的かつ普遍的なデザインが特徴。
※2 60~70年代のロンドンで活躍する前衛的な建築家集団が率いた運動。

松隈 洋(まつくま・ひろし)/建築史家
1957年兵庫県生まれ。80年京都大学工学部建築学科卒業後、前川國男建築設計事務所入所。2000年4月に京都工芸繊維大学助教授、08年10月より同教授。工学博士(東京大学)。専門は近代建築史、建築設計論。13年5月よりDOCOMOMO Japan代表、文化庁国立近現代建築資料館運営委員。著書に『近代建築を記憶する』(2005年、建築資料研究社)、『坂倉準三とはだれか』(2011年、王国社)、『残すべき建築』(2013年、誠文堂新光社)、『建築の前夜―前川國男論』(2016年、みすず書房)など多数。

 


このインタビューは2017年3月14日に行われたものです。

編集・構成:国際文化会館企画部
インタビュー撮影:松﨑 信智
©2019 International House of Japan


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