『トム・ソーヤーの冒険』などアメリカ人作家が母国について書いた作品を読むことで、アメリカについて学んだという人も多いのではないだろうか。近年波乱が続くアメリカでは、文学にも変化が見られるという。アメリカ以外の「どこか」について書く作家が増えているのだ。そうしたアメリカ文学の新たな傾向に着目するのは、次世代を担う翻訳家の一人としても注目される、アメリカ文学者の藤井光さん。アメリカ文学の現状、さらには翻訳についてお話を伺った。
[2017年6月]
藤井 光(ふじい・ひかる) アメリカ文学者・翻訳家。
1980年大阪生まれ。同志社大学文学部英文学科准教授。2017年、アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』で第三回日本翻訳大賞受賞。訳書にデニス・ジョンソン『煙の樹』、ウェルズ・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、セス・フリード『大いなる不満』など多数。著書に現代アメリカ文学についての考察を綴ったエッセイ『ターミナルから荒地へ』(2016年、中央公論新社)、編著に『文芸翻訳入門』(2017年、フィルムアート社)がある。
―アメリカ文学の研究を始めたきっかけは?
大学時代、初めは歴史を専攻していたのですが、受講した現代アメリカ文学のクラスで作品に込められた象徴性を考えたりすることが楽しくて、英文学専攻に移籍したんです。アメリカは、ベトナム戦争やパレスチナへの介入など、国家としての振る舞いは最低としか思えないけれど、そこから出てくる小説はすごく面白いんですね。例えばティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』のように心を打たれる話がたくさんあって、そのギャップについて知りたいと感じるようになりました。そこへ同時多発テロがあり、事件の背景やアメリカについてさらに知りたいと思い、研究者の道に進みました。
―小説から、アメリカを学ぼうとされたわけですね。
当時はそうでしたね。アメリカ文学は社会との関わりが比較的はっきりしています。それに「分かる人だけ分かればいい」というのではなく、民衆の中に文学が根付いている。欧州では名作は「あまり売れたらいけない」と言われますが、アメリカでは小説が名作であることと、ベストセラーになることが両立するんです。例えば、ジョナサン・フランゼンの『フリーダム』のように、ごく普通の人間が善悪の判断を迫られて、社会の中で正しい生き方をめぐって迷走するような話は、読んでいても親しみを感じます。以前はこうした、自分とは何かを問うことが、アメリカはどういう国なのかという問いにつながっていく作品が主流だったわけです。
―最近はそうした小説の傾向が変わってきている?
はい。80年代くらいから、いわゆる多文化主義と連動して、アメリカ在住の各々のマイノリティー・グループの二世や三世の作家が、アイデンティティー確立の物 を書き始めました。当時は、彼らの活動を文化的多様性として抱擁するアメリカ社会、というきれいな構図ができていて、全てがアメリカの中で完結していたんです。
しかし21世紀になると、外国で生まれてアメリカに来て、母語ではない英語で書くマイノリティー作家が現れます。彼らは作品の舞台をアメリカではない「どこか」に設定し、母国とアメリカの関係性や、母国の状況を書くので、当然アメリカの中だけでは完結しなくなります。中国出身のイーユン・リー、ドミニカ出身のジュノ・ディアス、ボスニア出身のアレクサンダル・へモンなどがそうです。
―アメリカの外の世界を経験した人が、なぜ英語で書くのでしょうか?
一つには初等教育を英語で受けていることが挙げられます。ペルー出身のダニエル・アラルコンは、母語はスペイン語ですが、読み書きの教育を受けたのは英語なので、ある情景を書こうとした時に、英語の方が表現の選択肢が多い。だから英語で書くんです。これはグローバリゼーションの影響で、人が簡単に移動できるようになり、英語で教育を受けるミドルクラスが増えたことと関連していると思います。
―そうした作家にとってのアメリカとは?
二、三世代前の移民だと、仕事や自由を求めてアメリカを目指しました。しかし前述のへモンは、ボスニアから取材でアメリカに来ていた時に、ユーゴ紛争が激化して帰れなくなり、そのままアメリカに移住したんです。もし彼が取材でフランスに行っていたら、フランスの作家になっていたかもしれません。つまりいくつもの可能性がある中にアメリカがあって、結果的にたまたまアメリカに移住したというのが、こうした作家の特徴です。アメリカである必然性はなく、本人の事情が変われば別の国に行くかもしれないわけです。
「いつ移動があってもおかしくない」というのは、空港のターミナルにいるのと同じような感じではないでしょうか。「ついに自分の居場所を見つけた」という感覚はなくて、今はそこにいるけれど、次の瞬間はどこに行くのか分からない。作風も事情もそれぞれ違いますが、彼らの作品にはそうした「ターミナル」のような感覚が共通しているように思います。またこうした作家は、アメリカの日常に迫るのではなく、ターミナルから世界に旅立ち、より無国籍な世界のドラマを描き出そうとしています。そしてその世界は、“荒れ地”というほかない荒廃した世界であることが多い。それは作家たちが、テクノロジーや移動が生み出す世界と、それと同時進行する不毛さの両極を敏感に感じ取っているからかもしれません。
―そうした傾向がアメリカ人作家に与える影響は?
ドン・デリーロやトマス・ピンチョンのように、アメリカのことを書くことが自分たちの使命だと感じている作家が連綿と存在する一方で、新しい移動の時代をどこかで受け入れているアメリカ人作家もいます。例えばアンソニー・ドーアは、中国の村がダムに水没する話や、南アフリカで記憶をなくしかけている女性の話というような、作品舞台がアメリカ以外の場所に移動した小説を書いています。そこにはアメリカ人すら出てきません。アメリカにこだわらなくてもいいというのを、自然に受け入れているのです。
少し前だと、アメリカ人作家が書く作品の舞台が外国の場合、そこにアメリカ人が行って葛藤し、アメリカ人としての自分は何なのかという話に収れんされていきました。でもドーアは、作家の創造力はAやBという国にある程度入り込むことができる、自由に旅できるということを前提に書いている。他にも、自分のルーツとは全く関係ないチェチェンについての本だけを書く、アンソニー・マーラという作家がいます。彼らは偶然出会った題材について書いているだけなんですね。
このように、外国からアメリカに来て作家になるのも偶然の産物ですが、アメリカ生まれの作家の中にもたまたま強烈にその題材に惹かれたことで、アメリカとは「違う世界」を書き始める人が出てきています。それはコインの裏表で、同じ時代の産物だと思うんです。僕はそういう感覚を持った作家の作品に惹かれるし、翻訳してみたいと思います。
―翻訳する際に心がけていることはありますか?
移民作家たちは、グローバル化とともにますます支配的になる英語に追従するのではなく、逆に新しい文体を生み出しているように思えます。彼らは、言語をすでにそこにある背景ではなく、浮き出ている個々のものとして捉えているため、ある単語の音や文字の並びが好きだという理由で言葉を選んだりもする。するとネイティブには思いつかない単語と単語の組み合わせが生まれるんです。ある意味で、スムーズな英語の流れにひずみを生じさせていると言えるでしょう。それはこうした移民作家の作品が、アメリカでも母国でもない「あいだ」という新しい場所を作り出していることに通じているように思えます。
そうした文章を訳すとなると、さらに「ずれ」や違和感、異物感が出てきますが、翻訳する時には、そうした異物感を維持するように心がけています。例えばメキシコ人作家のサルバドール・プラセンシアの『紙の民』のように、原文が少し奇妙な英語を訳す時は、その違和感が日本語でも出るように、原文に素直に訳します。
下訳は意外にも手書きだという。
―研究者としての知識は翻訳にどのように役立てられていますか?
文学作品というのは、一つの描写や場面に複数の意味があるものです。だから研究者としてトレーニングを重ねると、そうしたことを常に頭の片隅に置くことになる。同じ単語が反復されている意味合いや、シーンそのものがある種の寓意になっていてシンボリズムがあるとか、場面をとりまく社会的状況、小説の書かれた時代との関わりだとか…。そうしたことは、基本的に訳文の上でも、全て損なわれてはいけないんです。例えば、シンボリズムは保てているけれど、表現として特定の単語が選ばれているのに訳文からは全く消えてしまっている、といったことは極力避けないといけないんです。
意味を読み取って翻訳する以上、当然解釈しないと訳せないわけですが、結果として訳文が一つの意味しか成さないとなると、翻訳者の世界の押し付けになってしまいます。ブラジルのある翻訳者が「翻訳はあらゆる解釈に開かれていなければならない」と言いましたが、まさに僕もそう思っています。
―現代アメリカ作家の小説を翻訳する意味とは?
彼らが書く「異物」な小説は、それぞれの個が飲みこまれたり、衝突したりするこの世界に対する違和感や反発がなければ、生まれなかったと思うんです。そうした作品を翻訳するということは、文化と文化の出会いというよりは、言語を越えて個と個が出会うという意味を持つのかもしれません。
このインタビューは2017年6月20日に行われたものです。
聞き手:小澤 身和子/笹山 祐子(国際文化会館企画部)
インタビュー撮影:篠原 沙織
©2019 International House of Japan
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