Quarterly Plus No. 20

『I-House Quarterly』の誌面でご紹介しきれなかったコンテンツを掲載しています。今回はI-House & Meに寄稿してくださったピーター・グリーリ氏(ボストン日本協会名誉会長)のエッセイをフルバージョンでご紹介いたします。(広報誌では紙幅の都合により短く割愛して掲載しています)

 

My Second Home

by ピーター・グリーリ

私にとってアイハウスは、仕事でも私生活でもお世話になってきた「第二のわが家」だ。振り返ればアイハウスとの出会いは1950年代半ば――私がまだ中学生の頃に、アイハウスの最初期の会員だった両親に連れられ、ここを訪れたのだった。大戦後の日本でGHQの文化担当官を務めていた父は、1946年にはすでに松本重治氏(アイハウス創設者)と知り合い、氏を称賛していた。だから1950年代初めにアイハウスが創設されると、父と母はさっそく最初期の会員になった。やがて日本美術史家だった母がアイハウスで定期的に講演会を開くようになると、私は(彼女の無給アシスタントとして)たびたびプロジェクターの搬入や、スライドの操作を仰せつかることになった。

私が来日したのは1947年。当初は自分のライフワークがこれほどまで日本や日米の文化交流にフォーカスしたものとなり、またアイハウスとこれほど深い付き合いになるとは想像もしていなかった。1959年、東京の実家を離れ、ハーバード大学に入ったが、パスポート上ではアメリカ人でも気分はまるで留学生。もっとアイハウスのアメリカ研究プログラムを活用し、私の見知らぬ「故郷」について学んでおけばよかったと後悔したのを覚えている。休暇中やリサーチ期間に東京に戻るたび、私はアイハウスの図書室に足を運んだ。日本研究の書籍や雑誌が豊富にそろったライブラリーは私にとってまさに宝庫であり、研究を深めるのに大いに役立った。その後、東京のウェザーヒル出版社(アイハウスからほど近い六本木エリアにあった)の編集者になってからも、図書室はかけがえのない情報源であり、アイハウスはたびたび出版記念パーティーの会場ともなった。

さらにその後、ニューヨークのジャパン・ソサエティーのプログラム・ディレクターになってからは、知的交流プログラムや、日米あるいは多国間のさまざまな文化会議などでアイハウスと密に連携し、私たちはかけがえのないパートナーとなった。その最たるプログラムが1982年の第2回箱根会議だろう。多様な分野の第一線で活躍する日米のアーティストを一堂に集め、意見交換や交流を集中的に行った。

その後も、アイハウスはとても大切な存在であり続け、何より数えきれないほどの友情や出会いに恵まれた。松本先生の時代にはじまり、前田陽一氏、永井道雄氏、明石康氏など歴代の幹部たちが私のよき友人となり、時に励まし、時に刺激をくれた。近しい友人たちがアイハウスで婚礼を挙げ、また90年に(東京に居を構えて45年後のこと)父が他界した折には、アイハウスが「偲ぶ会」を開いてその死を悼んでくれた。

さらに私がプロデュースする日本関連のドキュメンタリー映画のほとんどが、アイハウスで国内初上映を迎えている。77年に発表した処女作『Shinto: Nature, Gods, and Man in Japan』の上映会では、当時アイハウスに宿泊していた著名なフランス人文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースを客席に見つけ歓喜した。最近では2016年4月、米国大使館との共催で、広島で原爆の犠牲となった米兵捕虜を扱った近作『Paper Lanterns』のプレミアも行い、折しもその翌月にはオバマ大統領の歴史的な広島訪問が実現した。

公私にわたってお世話になってきた「わが家」について、端的に語ることは到底できない。アイハウスを60年以上の歴史ある一流の施設に育ててきた幹部や職員の一人一人には、感謝の気持ちでいっぱいだ。若い頃は東京のナイトライフを満喫したいばかりに、午前0時の”mongen”に不満をこぼすこともあった。しかしそれもはるか昔に廃止され、私も70代半ば。今では夜9時ともなれば、アイハウスのベッドが温かく迎えてくれるのがありがたい。アイハウスはあらゆる意味で私の日本の「わが家」なのだ。

ピーター・グリーリ
ボストン日本協会名誉会長。ジャパン・ソサエティー(ニューヨーク)にてプログラム・ディレクター、コロンビア大学ドナルド・キーン・センター・オブ・ジャパニーズ・カルチャーにてエグゼクティブディレクターを歴任。