設立までの経緯
国際文化会館は1952年8月27日に設立されました。その契機となったのは、1929年の太平洋問題調査会(IPR)第3回京都会議でのジョン・D・ロックフェラー三世と松本重治との出会いでした。二人は多様な文化や人々に接するさまざまな機会に恵まれていたことから、政治や経済面からだけとらえられがちな国際関係に関し、異なった価値や文化の理解の重要性に対する共通認識をもっていた故、その後の生涯を通じ、文化交流を通じての国際相互理解の促進、とりわけ、戦後の日米関係の再構築に取り組むこととなりました。
1951年、対日講和条約締結の準備交渉のためトルーマン米大統領が日本へ派遣したジョン・フォスター・ダレス特使一行としてロックフェラー三世が再来日しました。訪日後、ロックフェラー三世は、米国との知的・文化的接点を復活させるという長期的な視点から、日米の官民両セクターに対する提言書「日米文化関係」をダレスへ提出しました。民間セクターへの提案には、両国に「カルチュアー・センター」を設立し、東京と京都に「インターナショナル・ハウス」を建設することで、知識人の交流をはかるプログラムなどが含まれていました。
こうした日本の未来に向けたプロジェクトにはロックフェラー財団の支援が必要だと考えたロックフェラー三世は、1951年秋、樺山愛輔を中心とする知識人グループと協議を重ね、その結果として国際文化交流を促進するための「文化センター」設立構想がまとまりました。ロックフェラー三世の着想に触発された有志が集まり、樺山を委員長に、松本重治とスターリング・W・フィッシャー(リーダーズ・ダイジェスト日本支社長)を常任幹事に、文化センター準備委員会が発足しました。同委員会は、ロックフェラー財団からの助成及び数多くの有志、在日外国人コミュニティ、川端康成ら文壇人たちによる支援を得ることとなり、間もなく財団法人国際文化会館がスタートしました。
ティー・パーティー(1952年11月)
一方で、[センター]と[インターナショナル・ハウス]は一体でなければならないと考えた松本たち準備委員会は、会館の敷地として、岩崎小彌太(三菱財閥創始者、岩崎彌太郎の甥)が戦前に所有していた、日本庭園のある3000坪(約2.5エーカー)の閑静な都心の敷地を、当時の池田勇人大蔵大臣と交渉し、払い下げの認可を得ました。建物は第一線の日本人建築家3人(前川國男、坂倉準三、吉村順三)の共同設計で1年余を経て竣工しました。ロックフェラー三世は建物の完成以前から、米欧諸国との知的・文化的交流の再活性化を望む日本人の渇望に応えるため、1953年初めにコロンビア大学へ寄付をし、日米間の交流を促すための知的交流計画を立案しました。
この目的の実現のために、戦前、新渡戸稲造を事務局長に国際連盟内に組織された国際知的協力委員会に触発され、範をとった日米知的交流委員会が設立されました。この組織は二つの委員会からなり、一つは、コロンビア大学の東アジア研究所に、もう一つは東京に置かれ、東京の委員会は東京大学教授で、アメリカ研究の泰斗、高木八尺を委員長、松本を常任幹事に活動を始めました。このプログラムによって、「第一級のアメリカ知識人」が日本を訪問、また、日本の知識人がアメリカに派遣されることになりました。このような経緯を通じ、国際交流の「場」として、1955年6月11日国際文化会館は開館し、世界各地からの知的・文化的指導者たちの出会う十字路として今日まで至っています。